「源から観る」とは何か

「源から観る」という言葉は、
特別な境地や、到達すべき意識状態のように
語られることがあります。

しかし、
私の捉える「源の位置」は、
何かを新しく獲得するものではありません。

誰もが、
もともとそこにいます。

ただ、
見失っているか、
忘れているだけです。


思考の位置に立っているとき、世界はどう見えるか

日常の多くの時間、
人は「思考の位置」から世界を見ています。

考えている。
判断している。
比較している。
どうにかしようとしている。

この位置に立つと、
世界は常に
「何とかしなければならないもの」
として立ち上がります。

問題があり、
課題があり、
不足があり、
対処すべきことが次々に現れる。

思考の位置では、
現実は
管理すべき対象
修正すべき対象
として見え続けます。


源の位置から観ると、何が違うのか

一方、
源の位置から観ているとき、
世界の見え方はまったく異なります。

  • 思考は起きているが、主ではない
  • 感情はあるが、巻き込まれていない
  • 現実は動いているが、揺さぶられない

そこにあるのは、
ただ観ているという状態です。

何かを操作しようとしない。
良くしようともしない。
結論を出そうともしない。

それでも、
現実は動き続けています。


よくある誤解について

ここで、
はっきりさせておきたい誤解があります。

源は、

  • 高い意識状態でもない
  • 悟りの先にあるものでもない
  • 努力や修行の果てに到達する場所でもない

源の位置は、
思考よりも手前にあります。


思考よりも手前の位置

それは、

  • 何かを理解する前
  • 意味づけをする前
  • 良い悪いを決める前
  • 反応が起きる、その直前

この位置に立っているとき、
世界はとても静かです。

静かだからといって、
何も起きていないわけではありません。

ただ、
反応によって分断されていない


「思考が自分」だと思い込む前の視点

多くの人は、
思考を「自分」だと思い込んでいます。

考えている声が自分。
判断している存在が自分。

しかし、
その思考を
観ている位置が、確かにあります。

思考が立ち上がる前から、
感情が動く前から、
ずっと変わらず在り続けている位置。

それが、
私の捉える「源」の位置です。


源に「戻る」のではなく、思い出す

源に戻る、という言葉も
正確ではないかもしれません。

離れていたわけではない。
ただ、
そこから観ていなかっただけ。

思考が創り出すマトリックスに没入し、
自分を見失っていただけです。

源とは、
どこか遠くにあるものではなく、
今この瞬間にも、
すでに在り続けている視点。


origin-style が扱っていること

origin-style では、

  • 源に到達する方法
  • 思考を消す技術
  • 意識を高める訓練

は扱っていません。

扱っているのは、
どこから世界を観ているか
という一点だけです。

位置が変わると、
現実の見え方が変わり、
結果として
人生・仕事・お金の立ち上がり方が変わる。

その過程を、
観測として記録しています。


最後に

源は、
特別な人のものではありません。

誰もが、
最初からそこにいます。

ただ、
思考の声が大きくなったとき、
一時的に見失うだけ。

この文章が、
そのことを
思い出すきっかけになれば。

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